タレイランは1754年2月2日にパリ市内に誕生した。その後司祭になり、1796年総裁府対外関係大臣に任命されてから1834年外務省に辞表を提出する38年間様々な活躍をしてきた。しかし、辞表を出し、そのときタレイランすでには80歳、その後の人生とはどのようなものだったのかこのレポートで述べていきます。
 彼が引退を決意した大きな理由は彼の甥エドモン・ドゥ・ペリゴールの妻、ドロテアよりの助言「老年に及んでは協議から引き上げる潮時をうまく選ぶ事が大切だ。他人が思う前に自分から年老いたとおっしゃりませ。」によるものである。
 その後引退したタレイランは以前と同じように冬はパリで、そして夏はヴァランセという町で過ごしていた。そこでどのように暮らしていたのかと言うと客を呼び、大盤振る舞いで歓迎しているのである。タレイランは客の礼儀にうるさかったそうで趣味の悪さは恩知らずや敵意以上に彼にショックを与えるものだったらしい。また購入した当時巨大な城館を当世風に改造したり、庭園や植樹の仕事の監督などもしていた。また芝居や音楽会なども催されていたそうである。
 こうしてみるとタレイランは完全に政治から手を引いたと思われそうだが実際のところまだ政治には興味があったようだ。辞表を提出してからも彼はその当時チエールとギゾーが権力争いをしていた際チエール派の拠点はパリのタレイラン邸であった事から推測できる。
 さて1835年にあるひとつの事件が起こる。それはタレイランの正夫人が亡くなったのだ。しかし彼女とタレイランはもう20年間も顔をあわせたことはなかった。タレイランが彼女の死を知った時、彼は平気な顔で「これで私の荷が軽くなった」と言っている。これはわざと悲しみを表すなんて事をしない人物であったし、それに正夫人への仕送り義務がなくなったのだから経済的に楽になったのだ。
 さてこうしてみるとタレイランは隠居生活においても政治的にも満たされていたようだが彼の心は平和ではなかった。後世の評価が気になっていたり、友人たちの死により自らの死について考えるようになったからである。
 そんな老後を送っていた1838年5月。彼は病に倒れる事になる。パリで数人の人たちと会食をしていたタレイランは「風邪を引いている」と言い出した。彼は猛烈な悪寒と吐き気におそわれたが仲間たちと会話を楽しんでいた。
 しかしその翌日検診を受けたところ悪性の病気にかかっていると診断されそのまた翌日に手術をする事になった。しかし彼は手術を終えたその日の晩、まだ傷の痛みや熱が続いていたにもかかわらず相変わらず客を招いている。彼は手術についてのジョークを言ったりしながら元気な様子を見せていた。
 だがその翌日彼の容態は悪化した。そこで神父のデュパンルーが慌てて彼の家へとやってきた。神父はタレイランにある種類にサインするよう求めた。その書類はタレイランがローマ教会に復帰し懺悔者として罪を悔いる際前もって彼自身の手でサインする事が必要だったのである。
 彼はそのサインをなかなかしなかった。まずその書類を読む事も必要ないと言ってしようとしなかった。神父が説得しタレイランが読み終えると「たいへんけっこうです。ご迷惑でしょうがこの書類をお預かりしたい。もう一度読み返してみたい。」という主旨のことをタレイランは言った。神父はとても落胆したそうだ。その後四方山話をした。結局神父は帰ったのだがそれでもサインはまだされてなかった。
 その翌日も神父はタレイランのもとにやってきた。しかしそれでもなお彼はなかなかサインしようとはしなかった。またその時にはタレイランが倒れた事を知り彼のもとへと多くの人々がやってきた。しかし彼らの関心事はタレイランの容態ではなく彼がサインをするのかどうか、であった。そんな状況の中、夜の八時になってもタレイランはサインをしなかった。神父は再びタレイランにサインするよう説得したのである。タレイランはその説得に対して「翌日の朝5時から6時の間にサインする。」と言う主旨の返事をした。その言葉に神父は従い一度帰ったのだが、その晩遅くにさらに容態は悪化していった。
 翌日の明け方頃、再び神父は現れた。そして午前6時にタレイランは書類にサインをした。そのサインは彼が第一級の重大な国事文書以外には決して使わなかった完全な署名、シャルル=モーリス・プランス・ド・タレイランを使用した。このサインによってタレイランの周囲の人々の心配事は取り除かれた。しかし悲しみが消えたわけではない。その後国王の来訪があった。その訪問が終わり、マダム。アデライドに永遠の愛の誓いを終えるとタレイランは昏睡状態に陥った。
 それから二時間ほどしてタレイランは再び目を覚ます。目を覚ましたタレイランに神父はタレイランの懺悔、罪障消滅、臨終の注油式を行った。
 終末の儀式が終わるとタレイランは急激に気力を失った。そして彼は生まれたときと同じように多くの人たちに囲まれて亡くなった。その時、タレイラン84歳。彼の碑文にはこう書いてある。
「ここに、ドゥ・タレイラン公爵、ドゥ・ディノ公爵シャルル・モーリス・ドゥ・タレイランの遺体眠る。1754年パリに生まれ、1838年5月17日その同じ町に死す」