トゥールーズ=ロートレックが生きた19世紀後半では「ジャポニズム」という日本芸術に対する好奇心と熱烈な称賛が流行していた。知識人達は強く触発され、画家たちにいたっては流行以上のものとして多大な影響、その後の絵画の流れを左右するほどの影響を受けていた。当然ロートレックもジャポニズムに深く影響された画家の一人である。
 ロートレックが始めてジャポニズムというものにふれたのはパリであった。パリでは1880〜1890年代にかけて頻繁に質の高い日本の絵画及び浮世絵の展覧会が催されていた。ロートレックはパリに出たての1882年からボナやコルモンに絵を学んでいた。しかし浮世絵と出会ってからはその二人の技法を捨てて浮世絵と言う新しい絵画に夢中になった。またコルモンのもとで学んでいた時にはあのヴィンセント・ヴァン・ゴッホと出会っている。ゴッホもまたジャポニズムの魅力にとらわれた画家の一人である。
 ロートレックは持ち前の感受性や時代の空気と様々な人々を鋭く観察していた事が日本画の影響を受けるにあたり素晴らしい作品を生み出す要因となったと考えられる。これは日本画における歌麿の大首絵や写楽の役者絵にみられるような興行界を意識した絵、ロートレックが「ムーランルージュ」に代表されるポスターを製作した事と共通している事からも明らかであろう。
 ロートレックが造形上浮世絵から影響を受けた事は多い。それは影を付けないことであったり、「ディヴァン・ジャポネ」や「ウィーン女エルザ」などと言った作品に見られるような明るい色彩を使用する事であったり、情景を普通とは異なる切り方、「ディヴァン・ジャポネ」に代表される「任意に切り取った非常に大胆な前景から視線を画面の奥に誘い空間に奥行きを出す広重好みの画面構成」(引用元:ロートレックと日本展・監修:陰里鐵郎・出版社:アーツ・インターナショナル・コーポレーション)で画面に取り込む事、この時代に普及した写真に影響を受けたと思われる構図の処理の仕方、日本的な線の使い方をロートレック自身のアラベスクに応用した事などが挙げられる。
 ロートレックの日本画にふれようとする姿勢は、ロートレックの友人であるモーリス・ジョワイヤンが次のように述べている。「ロートレックはモンマルトル大通り19番の半地階で織りなされる全ての事に常に熱心に立ち会い、貪欲に学ぼうとしていた。現在はパリ国立図書館所蔵のテオドール・デュレの日本の浮世絵と絵本の素晴らしい収集品が委託されたときは、何昼夜もかけてそれを整理し、北斎や歌麿、清長や春信の作品についての知識を仕入れ、彼等の落款を読みとれるように覚えたり、書いたりしたものだった。」「浮世絵を研究するうちに、ロートレックは、黄色と緑と空刷りを施した灰色の織りなす調和が絶妙な鳥居派と春信、もっと多彩で複雑な清長、歌麿、栄之の初刷りから学んだ。ロートッレクは歌麿の吉原の絵本に特に傾倒していた。そこには青と薔薇色と緑の洗練された色階の全てがあった。その色調には言い得て妙な、詩的な名称がついていた。茄子の白。魚の腹の白。薔薇色の雪。桃花雪。青みがかった雪。桃花月。海老緑。玉葱の芯の緑。緑茶。蟹緑。濃い青は空の黒という。」
 またロートレックは日本趣味の品を収集する趣味も持っていた。ロートレックが持っていたコレクションには藤椅子や日本の根付、掛け物や多数の工芸品があったとジョワイヤンが述べている。またロートレックは日本から墨と筆を取り寄せたりもしていた。他に彼が所持していたものとして小さな象の置物や葛飾北斎や喜多川歌麿の署名入りの浮世絵などがあった。
 この事からもわかるようにロートレックは非常に日本に関心を寄せていた。彼の芸術性が高まったのは日本画とであった事が多数の影響を与えている。
 実はロートレックは日本へと旅行したがっており、それは計画されたのだが残念ながら実現する事は無かった。
 もし、ロートレックが日本に来ていたとしたら、彼の絵はさらにすばらしいものとなっていただろうか。しかし今となってはそれを知る術は無くなったのである。