Coleridgeの「Hymn before Sunrise, in the Vales of Chamouni」



 私がこの詩を読んで最初に感じたのは自然と神に対して並々ならぬ情熱を持っているのだということである。
 また、最初から最後まで一貫して強い口調だとも思った。
 一番最初に私が目を引き付けられたのは「深し、暗し、厚くして黒し雲霧、黒壇の一團!」という部分である。最初は自然の偉大さ、雄大さを褒め称えていたのだがこの部分から一転して暗いイメージが表れ始めているように感じた。
 しかし、そのすぐ後で「されどふたたび眺むれば、そは汝の穏やかなる家なり、汝の水晶の宮居、汝の劫初よりの棲處ぞ!」とまたもや一転して良いイメージが表れている。
この二つの部分より自然の持つ優しさと怖さをここから私は感じ取った。
 その後、「されど、心迷はす美しき旋律のごと、それに聴惚れながら吾等自ら知らぬほど美しき旋律のごと、汝はしばしわが理念とまじりてありき。」という部分になる。ここでは自然の美しさをメインとして謡っているという印象を受けた。この後、「かくてつひに擴ごる魂は光惚として滲みわたり、偉大なる幻となりて移りゆきつつ、そこにて魂の自然の相におけるがごとく、澎湃として天にまでひろがりき!」とその美しさを様々な表現をしているが、私が好きな表現は「わが生とはた生のひそかなる歓喜とまじり」という部分である。
 次の連では自らへの呼びかけとなっているように感じた。最初から「目ざめよ、わが魂!汝は受身のほめたたへのみを負へるに非ず!」と力強くまるで自らを奮い立たすように呼びかけている。私もこの部分は好きな個所である。
 次の連では自然に潜む何者かに対しての呼びかけである。「夜明けには明星の伴侶、汝自身、大地の薔薇色の星となりて明星とともに暁を告ぐる便よ、覚めよ、おお覚めて讃へよ、」という部分が幻想的で私はとても好きな部分である。またそのすぐ後の「汝が日の光透らぬ柱を深く大地に埋めしは誰ぞ?汝がかんばせを薔薇色の光もて満たせしは誰ぞ?汝を絶えざる流れの祖となせしは誰ぞ?」は自然のより深い本質へと潜ろうとしている印象を受ける。
 その次の連とさらにその次の連は再び自然への問いかけと呼びかけである。「誰ぞ」という問いかけがこの連では目立っており、合計7回登場している。その誰ぞはやはり自然への、特に自然の深いところに対しての問いかけである。
 またその次の連では自然とともに存在する神への呼びかけの部分となる。私がここで印象深かったのは「奔流をして國々の民の叫びのごとく 答えしめよ!かくて氷の原をして呀せしめよ、神とぞ。」という部分である。ここは私が鬼気迫る叫びだと感じた部分でもある。
 「永劫の凍土をくまどる汝ら生ける花々よ!」から始まる次の連は希望への思いが伝わってくる連である。また詩の表現で「元素」という表現が使われているのも珍しいと思った。
 最後の連では今まで全ての連で謳ってきたことへの最大の賛美だと感じた。特に「靄へる雲に似て厳かにわが前に昇ると見ゆる汝よ!昇れ、おお、つねに昇れ、さながら香の雲のごとく大地より昇れ!」という部分が最初に述べたように力強い呼びかけであると感じた。
 私はこの詩全体を通して自然をとても大きなもの、そして偉大なものとしてコルリッジは捉えているのだと感じた。