Oscar Wildeの「The Young King」について



 この話はよくある教訓話だ、というのが読後の最初の感想だ。何も知らない男がいてその男がさまざまな体験のあと成長する−という童話にありがちな話だという印象を受けた。
 しかし、この作品はヨーロッパ、つまりキリスト教が強く影響している。全てを捨てた若い王が最後に神の祝福を受けるというのはそのままキリスト教が強い影響力を発している。
 若い王は夢を見るのだが、その内容は機織手、奴隷船、王冠を飾るルビーを求めて探し回る群集、を順番に見ていきます。夢を見て主人公が何かを思い成長するのだが、いったい何故若い王はこんな夢を見たのかという事を考えると、私は主人公である若い王の潜在意識ではないかと思う。王は急遽後継ぎに決まった王である。つまり、子供のころは帝王学といったものを一切教育されずに育ってきた王ということである。この若い王は山羊使いの息子として育ってきた。そのため彼の考え方は身分の高い人たちよりも身分の低い人たちの考え方に近いと思われる。
 そのため、王としての生活に戸惑っているように私には感じられた。
 さて、何故王がこんな夢を見たのか、ということに対しては私は若い王自身が身分の低い者達の犠牲の上に成り立つ贅沢な暮らしを心のそこで拒んでいたからではないかと思う。おそらくこの若い王自身ですら気づいていないだろうが、やはり王としての教育をまったく受けてこなかったのだから当然といえば当然である。つまり、若い王は「このままではいけない、これではダメなんだ。」ということを心のどこかで思っていたのであろう。そのため機織工や奴隷船などの夢を見たのではないかと私は思った。
 さて、この話は童話なのだか今私のような成年が読んでもハッとするところがあった。それは、若い王が全てを脱ぎ捨てて大聖堂へと向かうシーンで「王様。金持ちがぜいたくをするので、貧乏人の生活がなりたっていることを知らないのですか。あなたさまの栄華によって、われわれは養われているのです。あなたさまの悪徳が、われわれにパンをあたえてくれるのです。主人のために、あくせくと働くことはつらいことですが、あくせく働いてやる主人がいないことのほうが、もっとつらいのですよ。」と一人の男が王に向かって言うのだが、この言葉に衝撃を受けた。普段は特に意識してなかったのだが、そう言われると納得できてしまったのだ。普段私は一人で勝手気ままに過ごしていると思ってきた。しかし、私には親がいる。そして学校には友人がいて先生がいる。店には店員さんもいるし、バスの運転手や地下鉄の駅員さんもいる。つまり、人は決して一人では生きていけないのである。私は「人は一人では生きていけないし、それぞれにはその人にしかできない役割があるのだ。」とこの作品は言っているのではないかと思う。
 私は「難しい言葉ばかり使った大人向けの小説よりも子供向けの童話のほうが執筆するのは難しい」という意見の持ち主なので童話でちゃんとした意見を示せるのはすごいと思う。
 また私は、主役よりも脇役のほうを注目する癖がある。そのため、主役の若い王よりも夢の中に出てきた貧しい人たちのほうが心に残っている。そして彼らが王に対して言ったことを私は否定することができない。そして若い王が夢を見て気づいたことは理想論ではある。しかし、その理想を実現しようとすることは正しいことであり、しなければならないことだと思う。たしかに人間にはどうすることもできないことがたくさんこの世の中にはある。しかし、それに対しても一生懸命、精一杯生きることが大切なのだ、と私はこの作品を読んで受け取った。
 さて、最後にこの話の最後、つまり神に若い王が祝福されるシーンなのだが奇跡が起きた後司祭が「わたしよりもはるかに偉大な方が、あなたさまに、王冠をおさずけになったのです。」と言うのだが、もしこの時「これは悪魔の仕業だ。この男を殺せ。」となった場合怒りとともに若い王を追っかけてきた貴族達に殺されていただろう。これは考え過ぎかもしれないが「たとえ正しい事が行われてもその受け取り方によって善にも悪にもなる」ということではないかと思った。ここで私はある一人の人物が頭に浮かんできた。そん人物の名はジャンヌ・ダルクである。彼女は当初神の使いとしてフランスを導いて行った。しかし、イギリスによって魔女の烙印を押され、火あぶりの刑に処せられてしまう。ここが若い王と反対の人生ではないかと思う。若い王は司祭(教会)の支持を得、ジャンヌは得られなかった。そんなことを読んだ後に思った。なんとか正しい判断ができるようになりたいものだ。