「……へえ、お客さんクルブルケイハへ行くんですか。」
 昼下がりの田舎町、ツォーにある酒場のマスターが目の前にいる男の客と会話をしている。
「ああ、商売でね。」
「商売……ああ、行商人ってやつですか。」
「そうそう。」
 行商人の男はうなずきながらグラスを飲みほした。
「でも、それなら暗くならないうちにお立ちになった方がいいですよ。」
 マスターは何気なく外を見た。
「どういうこと?」
「ええ、この山、クルブル山なんですがちょっと嫌な噂がありまして。」
「噂?」
「はい。その噂というのは……おっとグラス空ですが。」
「もらおう。ここの地酒は最高だね、もう一杯。」
「かしこまりました。」
 マスターは地酒を注いだ。
「お、ありがとう。で、何なの、噂って。」
「……日が暮れて夜になると出るんですよ、幽霊が。」
「幽霊?」
「ええ、女の幽霊が。結構有名な話なんですがね。その女の幽霊ってのは昔恋にやぶれて自殺したってんですよ。その女が未だに未練があるらしくてあの山の中にいて旅人を誘うそうです。」
「ほお、そりゃいいね。俺も誘ってもらおっかな。」
「何言ってるんですか、そんなことしたらあなたどうなるかわかりませんよ。」
「でもさ、クルブル山で迷うわけないだろ。そりゃ昔……セダーだっけか?そんな前ならともかくさ、今はちゃんと登山道もあるんだぜ。」
「でも迷う方はいらっしゃるんですよ。それもその幽霊が招いてるんだとか……」
「ぶあっはっはっは。」
 行商人の男は突然笑い出した。
「大丈夫だってマスター。そんな幽霊なんているわけないじゃないか。ほら、もう一杯入れてよマスター。」
 いつのまにか男が握っているグラスは空になっている。
「あーあ、飲みすぎちゃったんですかねえ。」
 そう言うとマスターは外に目をやった。日はだいぶ傾いている。

 そしてそれから数時間後。すっかり日は暮れていた。行商人は山の中で迷っていた。
「うそだろ……迷うなんて……。」
 行商人はぼやきながら山の中を進んでいた。
「全くあのマスターもマスターだよなあ、どこかきりのいいところでとめてくれればいいのに。」
 行商人は自分が酔っ払った事を棚に上げぼやき始めた。
「あーあ、こりゃ野宿か?ん?ありゃなんだ……。」
 行商人の視線の先には明かりのついた山小屋があった。
「これはツイてる。早速助けてもらおう。」
 行商人は走って山小屋へと向かって行った。

「頼みますよ〜頼むから変な奴が出てこないでよ〜。」
 行商人は手をあわせながら小さな声で祈った。
 その時扉を開く音がした。そして中から出てきたのは……
「どうかなさいましたか?」
 一人の美しい細身の女性であった。
「あ、あの、実は道に迷っちゃいまして、しかも日が暮れたもので……。」
「よろしいですよ。どうぞ。」
 行商人が最後まで言わないうちに女性は中へと導いてくれた。

 部屋の中は質素なものだった。置いてあるのはイスとテーブルぐらいなものだった。
「どうぞ。」
 女性の長い髪はまるで漆黒の闇のように艶やかだった。そしてその容貌は月の女神を思わせるものだった。
「……おきれいですね。」
 思わず行商人は声に出してしまった。
「ええ、きれいでしょう、あの月。」
 女性は窓辺に立っていた。
「……あ、そ、そうですよね、きれいですよね。」
 行商人も窓辺に立った。
「えーと……お名前は……。」
 行商人は何気なくたずねた。
「私ですか?私は……スラアノと言います。」
「私はカーグと言います。……スラアノさんは恋人とかはいらっしゃるんですか?」
「それが今いないんですよ。……昔失恋しちゃって。」
 その時カーグの頭にあるフレーズが浮かんできた。
『その女の幽霊ってのは昔恋にやぶれて自殺したってんですよ。』
 まだ明るいうちによっていた酒場のマスターが言っていたこと。そう、考えてみればこの女性は幽霊じゃないかと思いたくなってしまう。
『その女が未だに未練があるらしくてあの山の中にいて旅人を誘うそうです。』
 カーグのひたいから冷や汗が流れた。
「あの……あなたは恋人とかは……。」
「あ、いや、いないんですが……。」
「それじゃあ良かった。」
「え?」
「あなたはここで暮らしてみようって思いません?」
「え?え?そ、それはどういう……。」
 少しカーグの声は震えだした。
「その……私みたいな女性はお嫌いかなって。」
 みるみるうちにカーグの顔は青くなりだした。彼の頭には一つの考えしか浮かんでいない。
『幽霊だ。間違いない、この女は幽霊だ。』
 そう思ったときだった。スラアノがカーグの隣りに座った。
「あの……はじめての方にこんな事言うのはおかしいんですが……。」
 スラアノは明らかに艶っぽくなっていた。
「わ、わ、わわわわあああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
 スラアノの唇が今まさにカーグのと重なろうとした時、カーグは飛びあがって叫んだ。そしてそのまま山小屋の外に飛び出しそのまま走り去ってしまった。

「ゆ、ゆ、幽霊だー!」
 そう叫びながらカーグは走っていた。そのうち空がだんだんと白々としてきたが彼はまだ走り続けていた。
 そして結局彼が走りやんだのは日も昇った頃、山のほぼふもとのところであった。そして、走りやんだ時彼の目に入ったのはクルブルケイハの町なみだった。
クルブルケイハ


「た、助かった……。」
 彼はへとへとになりながら何とか歩いて町の中へと入っていった。

「いらっしゃいませ。」
 彼は宿屋に荷物を置いた後クルブルケイハにあるちょっと小さめの酒場にいた。
「いやー参ったよマスターちょっと聞いてよ。」
「どうなさいました?」
 そう言いながらマスターは地酒を出した。
「いやね、幽霊にあったんですよ、幽霊に。」
「ほお。」
「それでね……ちょっと飲ませてくれ。」
 カーグは地酒を一気に飲みほした。
「……!?!?!?!?!?!?」
「はっはっはお客さん、その酒はものすごい強いんですよ。」
 カーグはむせている。
「あーあ、ちょっと待っててください。……はい、水ですよ。」
 カーグは何も言わずにコップに手を伸ばした。
「げほっ、げほっ、げほっ……はあ、はあ、はあ……ありがとう、何とかおちついた。」
 カーグは姿勢をたてなおした。
「で、えーと……どこまで話したんだっけ?あ、そうそう幽霊に会ったんだよ。幽霊に。俺も信じられないんだけどね、それがまたベッピンさんなんだよ。幽霊じゃなきゃねえ。」
「あの……お客さん、その幽霊どこで会ったんです?」
「いや、クルブル山の中でだよ。あそこの幽霊有名なんだよ、ほら、恋に破れて山の中で自殺したっていう……。」
「いや……そんな話初耳ですねえ。一体どこでそんな話をお聞きになったんです?」
「ほら、あの山の反対側にあるツォーっていう町の酒場でだよ。」
 カーグがそう言うとマスターの顔が曇った。
「……お客さん、それは……本当ですか?」
「ああ、そうだよ。あそこの地酒最高だったなー。そこそこの辛さでさぁ。」
「……お客さん。もう一杯どうです。」
「いや、いいや。またあんな強い酒飲まされたらかなわないしな。」
「お客さん。……ツォーって町ないんですよ。」
「へ?」
 カーグはキョトンとしている。
「正確に言うともうないんですよ、ツォーという町は。」
「……いやだって。」
「もう……今から何年も前になりますかねえ。ある嵐の晩クルブル山が崖崩れおこしましてね、土砂がツォーを直撃しちゃったんですよ。残念ながら……みんな逃げ遅れて一人残らず死んでしまったんですよ。ひょっとしたら。」
 そこまで言うとマスターは少し間を置いた。
「まだこの世に未練があるんですかねえ。」

〜END〜



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