その次の日の昼休み、会社の非常階段に由梨がいた。
「全く、いったい何なのかしらあいつは〜。」
 彼女の言う「あいつ」とは幼なじみのことである男、
「ごめん由梨さん。遅れた。」
 今非常階段に現われた男、秋戸賢である。彼女とは実家が近所だった事もあり子供の頃から仲が良く、今でも腐れ縁のためこうして同じ会社にいるのである。
「遅い。10分の遅刻。」
「でも……待っててくれたんですね。」
「な、何言ってんの!」
「す、すいません。」
「……なんでそこで謝るかなあ……。」
「え?今何て。」
「いいわよっ!聞こえてないんなら!」
「あ、そうだ。このあいだお父さんにお会いしたんですがね。」
「え?何?お父さんが?」
 ちなみに由梨の父はこの会社の社長である。
「ええ、たまには家に帰って来いって。」
「あのね、知ってるでしょあなたも。」
「ええ、早く見合いさせたいって。」
「私は嫌なの!」
「まあ、まだいろいろな事したいって時期ですからね。」
「……それだけじゃないんだけど。」
「え?今何て。」
「な、何も言ってないわよっ。」
「それじゃあ……また。」
 そう言うと秋戸は会社の中へと戻った。
「……本当、なんでああまで鈍いんだか。」
 由梨は秋戸の事が好きだった。子供の頃からずっとそばにいたため、それが恋であると気付くには時間がかかってしまったが。
「今頃になって好きです、なんて言えるわけないじゃない。……でも、好き……って言えたらな。」
 由梨はそう言いながら普段昼食をとるレストランを何気なく覗いた。
「……ありゃ?あれは……?」
 由梨はそう言うとポケットからオペラグラスを取り出した。
「まさか役に立つ時が来るとはね〜。」
 そうつぶやきながらレンズを覗くとそこには同じ課の芦原志郎と絵里が食事をしている所であった。

「見たわよ、絵里。」
「何をよ、由梨。」
「お昼休みよ、お昼休み。」
 由梨がそう言うと明らかに絵里の顔がこわばっていった。
「ほら、志郎君と一緒に……。」
「あのね、あれは無理やり一緒に……。」
「ねえねえ絵里〜。志郎君と一緒に食事したんだって?」
 ふと由梨が後ろを向くと利亜がやってきた。
「利亜……だから違うって。」
 どうやら利亜もどこかで絵里と志郎が一緒に食事をしていたのを見かけたらしい。
「隠さなくってもいいよ、絵里。幸せになりなね〜。」
「そうそう。」
 由梨が相槌を打つと絵里は顔を赤らめながら、
「違うって……。本当、最近ツイてないな。仕事も失敗するし思いきって買った服は次の日半額になるし挙句の果てにワケわかんない男には言い寄られるし。」
「えーいいじゃない志郎君。利亜だってそう思うよね。」
「そうそう。いいんじゃない、志郎君。」
「あのね。……ちょっと待って。由梨はともかく利亜はなんで知ってんのよ。利亜も見たって言うの?。」
「それがさあ……社内で言いふらしまくってるのがいるのよ。」
「!?だ、誰よそれ。」
「……あ、あいつよ。」
 と言いながら利亜は部屋の中に入ってきた男を指差した。
「……あいつか……。」
 由梨は利亜の指した先に目を向けた。そこには志郎が立っていた。

 その週の日曜日、彼女は久しぶりに実家へと帰っていた。秋戸に言われた事を何となく気になっていた由梨は一度はっきりと見合いをする気はないと言っておこうと思っていたのだ。
「言っとくけどは見合いなんかする気ないからね。」
「由梨、何言ってるの。相手の方いい人なのよ。うちの会社の取引先の人で瀬野さんという方。会うだけ会ってみたら?由梨。」
 彼女の母である臼橋好子は写真を取り出しながら由梨に勧めた。
「そうだぞ、由梨。」
 父親である臼橋大は厳格な声で由梨に話しかけた。
「早く孫の顔を見せて欲しい、とまでは言わんがなあ。せめて誰か恋人でもいてくれたら安心できるんだが。」
「ほっといてよ!」
 由梨は思わず叫んだ。
「だいだいだからと言って見合いだなんて。」
「いや、これは何か取引先との関係もあって……。」
「何よそれ。私のためじゃなくて二人のためなの?」
「……いや、その……。」
「そのねえ、あなた……。」
 父と母は顔を見合わせた。
「とにかく、私は絶対見合いなんてしませんからね。」
 由梨は二人に断言した。
「……じゃあ、せめて恋人ぐらい……。」
「あ、じゃああの子はどうかしら、秋戸さん。」
 母は手を叩きながら提案した。
「ん?彼か。彼ならわしも大賛成だ。」
「いいかげんにしてよね!」
 由梨は思いっきり叫ぶと部屋を後にした。ただ、秋戸にこの会話を聞かせてやりたいとは思っていたが。

 その晩、自分の家に帰った由梨は留守番電話に何かメッセージがあるのに気づいた。
「……誰からだろう。」
 由梨は何気なく再生のボタンを押した。
「……秋戸です。ひょっとしたら僕会社辞めるかもしれません。いろいろと考えたんですが……このまま会社にいたら安定した生か……ピーッ。」
「え?」
 由梨は何か胸の中で張り裂けそうになっているのを感じた。
「今……何て?」
 留守電は次のメッセージを再生し始めた。
「……また秋戸です。さっきの続きですが安定した生活よりも僕は夢を追い掛けたいんです。しばらくあなたとは会えなくな……ピーッ。」
 由梨は今までの事が全て夢ではないかと思うほどショックだった。
 留守電は次のメッセージを流し始めた。
「しばらくあなたとは会えなくなると思います。カナダへ行こうと思っているんです。僕は自分を自分として見てくれるところで勝負するつもりです。それじゃ由梨さん。それか……ピーッ。」
 留守電のメッセージはそこで終わっていた。由梨は一人静かに、泣いていた。その夜は小雨が降り出しそうな空だった。

 そして月曜日。
 由梨は会社を休んだ。会社には風邪と報告したが実際はショックから立ち直れなかったためである。
 由梨は大切な物を失うことの辛さを痛感していた。いつも一番近くにいたからこそ勇気を出せなかった自分を悔やんだ。
 何度か電話が鳴ったがすべて由梨は無視していた。もし電話に出てあの男だったらどうしよう。あの男だったら全てを話してしまうかもしれない……。そんな事を由梨は考えていた。それは今由梨が一番したい事だった。そしてそれは最も怖い事でもあった。
 由梨はただ泣いていた。ただ、泣き続けていた。
 由梨はふとアルバムが目に入った。
「……アルバム……。」
 由梨はアルバムを自然に手に取った。そこには今まで彼女が生きてきた足跡があった。
「……秋戸……。そう、まだ私達もちっちゃかったよね……。」

 まだ由梨が小さい頃。
 由梨は子供の頃から活発な少女であった。近所の子ども達ともよく遊び、いわばガキ大将的な存在であった。そしてその頃から秋戸も一緒に遊ぶ仲であった。その頃由梨は時が止まったかのような錯覚を感じていた。秋戸がそばに居るのは当たり前の事だと思っていた。その時は永遠の物だと信じて疑わなかった。でもそれは単なる幻想であり、願望でもあった。
 いつごろからなのだろうか、秋戸の事を意識し始めたのは。それまではいつも一緒にいるただの親友であったはずだ。なのにまっすぐ顔を見れなくなった。あれは中学生の頃だったか、バレンタインに秋戸が他の女の子からチョコを貰ったと噂に聞いた時などは二日眠れぬ夜を過ごしたものである。ちなみにそれが由梨のはじめての徹夜体験である。
 その後、秋戸がその女の子と付き合いだしたという事を聞いた時は落ちこんだりもした。しかしその後別れたと聞くと、落ちこむ秋戸をよそにひそかにガッツポーズを取った事もあった。
 そんな時でも由梨と秋戸は親友という関係は続いていた。そして二人は高校三年生の秋、進路の事が話題になり始めるようになった。そんなある日。
 二人はたまたま一緒に帰る事になった。何故かその日は会話がなかなか続かなかった。15分ほど歩いた頃、秋戸が口を開いた。
「……由梨さん、前から言おうと思ってたんですが……。」
 秋戸の顔は珍しく真剣な顔になっている。
「どうしたの?」
「実は僕アメリカへ留学しようと思ってるんです。」
「え?」
 由梨は戸惑った。
「前からの夢だったんです、留学は。自分を自分として見てくれる所へ行って試してみたいんです。だから……しばらく会えなくなると思うけど、由梨さん。また……いつか。」
「……そう。頑張ってね。」
 由梨はそれ以上言えなかった。それ以上言うと自分の思いに気付かれそうで言えなかった。由梨は涙を隠さなければならないと感じていた。もし涙を見られたら、もし自分の想いを伝えたら―秋戸がどういう反応をするのかが怖かった、秋戸の本心を知るのが怖かったのである。
 結局由梨は何も言えぬまま家に帰った。自分の部屋に入るといままで我慢していた涙が溢れ出た。そしてその涙は秋戸にも、そして誰にも見せる事はなかった。
 それから由梨は四年制の大学へ進み、秋戸もアメリカへといってしまい四年間会うことはなかった。

「……あの時と……同じ……。」
 目に涙をためながら由梨はつぶやいた。
「私……何やってるんだろ……。」
 由梨は涙をふいた。そして、電話に手を伸ばした。
 その時、玄関のドアをノックする音が聞こえた。由梨は何か予感めいたものを感じながら玄関のドアを開けた。
「……由梨さん。」
 そこには秋戸がいた。
「病気って聞いたんで……来てみたんですが。」
 秋戸は走ってきたのか息があがっていた。
「元気そうですね、よかった。」
「……秋戸君、何で来たの?」
「風邪で休んでるから様子見て来いって言われて。」
「誰に?」
「芦原と確か……江灘さんと野部さんに。」
「……あの二人……。」
 由梨はあきれた声を出した。
「でもよかった、こうして会えて。会社を辞める前に一度言っておきたかったんですが……。」
「何。」
 由梨は目線をそらした。何となく、嫌な予感がしたのである。
 そして秋戸は口を開いた。
「僕は……由梨さんの事が好きなんです。」
「……え?」
 由梨は戸惑った。
「……だから僕は由梨さんの事を本気で……好きなんです。」
「……もっと早く言ってよ。」
 由梨は涙声になりだした。
「私ずっと待ってた。私らしくないけど、ずっとあなたからの言葉、ずっとずっと待ってた。」
「由梨さん。キスしても……いいかな。」
 由梨は黙ってうなずいた。
 秋戸は由梨の顔に近付いた。その時、
「ちょっと待って。」
「え?」
「私からも言わせて。あなたが好き。誰よりも好き。本当に本当に心の底から……好き。」
「それじゃ……。」
 そして……二人はキスをした。

絵里 利亜

そして……